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日記で読む日本文化史

鈴木貞美(2016)『日記で読む日本文化史』平凡社新書
 日記をつけるという経験は誰しもあるだろう。それが夏休みの絵日記でいやいや書かされたものなのか、自らの妄想が垂れ流され黒歴史と化した若気の至りなのかはひとそれぞれである。facebooktwitterで日々のことを綴っている人たちもまた日記をしたためているといえるのかもしれない。本書は、日本の古代からの日記を辿りながら、そこに何が書かれてきたのか、日記とはどのようなものだったのかが記されている。

日記で読む日本文化史 (平凡社新書)

日記で読む日本文化史 (平凡社新書)

 

 

  文化史、文学史というときにイメージする日記というと、『和泉式部日記』『更級日記』『土佐日記』ではないだろうか。平安朝に書かれ、現代では日本文学のなかで燦然と輝く、名作と呼ばれるものである。余談だが土佐日記の冒頭「男もすなる日記といふものを女も書いてみんとてするなり」を暗記させられたり、助動詞「なり」の識別として覚えさられた受験生も多いだろう。本書にもそのようなメジャーどころの日記は登場するが、その前にそもそも日記とは何であったのかを明らかにするところから記述がはじまっている。日々の記録を残すということは、儀式の次第を書き残したり、業務の記録を残すということから歴史が始まっているのであるから、これは現在のわれわれの日記とは異っている。そのような仕事についての日記は、われわれにとっては業務日誌と呼ぶものだろう。

 また、日記と銘打たれたモノ以外にも、『方丈記』や『徒然草』など今日随筆と呼ばれるものも紹介されている。随筆をどのように考えるのかはむずかしいが、『徒然草』に云うように、「つれづれなるままに、ひくらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなしことを、そこはかとなく書きつく」ったものが随筆ならば、日記にもそのような側面は確かにある。もちろん、それが後世に名文として残されるか、単なる一庶民の生活の記録として研究されるか、日の目をみずにどこかに閉じ込められるかはひとそれぞれである。
 
 さて、このような日記についての歴史をみたときに、私が感じたことがひとつある。いわゆる「出来事日記」というのはほんとうに人気がないということである。いくつもの日記が紹介されているが、そのなかにはある程度他人に見られることを意識した日記が少なくない。日記とは私秘的なものであってもよいのだが、それが他人の目に触れる可能性が生じるやいなや、多かれ少なかれ考察・感想・思いが文章に入り混じってくる。そして、そのような伝統は、われわれが学校で受ける日記の指導にも連なっている。先生は言う。「何をしたかだけを書いている日記はつまらない。そこで君たちが感じたこと・考えたことが重要である」と。たしかにそのとおりだが、日記くらいは好きに書かせてほしいものである。