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「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか

 いままで、外国語教育ばかりだったので、今回は違うテーマでいきます。たまには、違う本も読んでおかないと、頭が凝り固まりそうなので。読んだ本は浅羽通明(2016)『「反戦脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』ちくま新書である。

 

「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか (ちくま新書)
 

  この記事のなかで、リベラルのダメさを明らかにするのに紹介されていた3冊の本のひとつである。

 

www.webchikuma.jp

 

デモをしても止められないじゃん!

 2011年の東日本大震災以降、市民運動、社会運動、デモといわれる抗議活動が広まりをみせており、なかでも、これまでそのような活動には縁遠かった若者の参加が目立つといわれている。また、脱原発原発のみならず、昨年の安保法制についても同様に国会前・官邸前でデモが行われ、芸能人もアピールをするなどして注目を浴びていた。

 しかしながら、そのような活動が展開されたにもかかわらず、実際には原発は再稼働を始め、安保法制は成立し、先ごろの参議院選挙では与党の圧勝という結果に至っている。つまり、抗議活動の数々は敗北し続けているのである。

 本書は、リベラルの活動がなぜ勝利できないのか、要求を実現できないのかについて考えたものである。

 

デモには怖さがない

 まず第一の理由として、デモには力がないのである。要求を実現するためには、実力を示すことが手っ取り早い。

 

言うことを聞かないと次は怖いぞと脅す(p.20) 

 

 実際には大正時代にはそのような要求の実現のさせ方があったという。しかしながら、参政権の拡大によって実力による要求の実現(暴動)も収束してしまった。

 現在のデモに怖さが生まれない理由としては、デモが「楽しさ」や「敷居の低さ」「党派性のなさ」があるという。こうした要素は参加者のデモへの心理的な抵抗を軽減するかもしれないが、デモが実際にどの程度有効であったのかについての効果測定を忌避してしまう。楽しさが重要なのに、そこに水を差すようなことはしないほうがよいのである。

 結局力や怖さがないデモでは、政治家は票に結びつくとは考えず、相手にもされないのである。

 

デモにはリアリティがない

 デモに参加する人たちや、現在の楽しさや目新しさを伴ったデモを擁護する人たちは、ある種のヴァーチャルな世界観で生きていると筆者は考えている。

 この部分について私なりにまとめてみると、デモにまつわる人たちの内輪な世界観やノリがあり、それが内輪の外にいる人たちとのあいだで大きな差を生んでいるというものである。内輪で展開されるヴァーチャルな世界と、その外にいる人たいのリアルがつながりをもっていないので、結局運動はあくまで身内の枠にとどまってしまい、現実の政治を動かすという部分にまでいたらないのだという。

 

 浅羽通明氏の政治的な考え方はさておき、この著者がデモについて、述べていることは無視できないと思う。「結果と過程」「手段と目的」といった昔からの問題の建て方ではあるが、あまりに過程を重視しすぎ、手段の目的化が進んでしまうことは、はたしてよいことなのでしょうか?

 しかしながら、まともいデモに参加したこともないので、あまりえらそうなことも述べられないのでこれまで。