英語は「教わったように教えるな」
若林俊輔著・小菅和也他編(2016)『英語は「教わったように教えるな」』研究社をやっと読み終わった。だいぶ前に購入していたのだが、なかなか読み進められなかったが、今日読み終わった。若林俊輔については、以前にも『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る』を読んでいる。
今回は若林の著作についてその弟子筋にあたる研究者たちが、まとめたものである。
若林先生の著作のうちで雑誌等に投稿されていて、書籍として刊行されていないものを集めたのが本書である。英語教育・外国語教育に関して津々浦々のことが書かれている。そのなかで、実際の英語教師たちに伝えるメッセージのひとつがタイトルにも付けられている「教わったように教える」であろう。
おそらく英語教育(数ある外国語教育のなかでもとりわけ英語という意味での英語教育)は、もっとも指導法や教授法の変化、学習指導要領上での取り扱いの変化を受けやすいもののひとつである。それでありながら、同じような批判が歴史のなかで常に繰り返し行われている。文法訳読式やトランスレーションメソッドへの批判などいつからあるのかを聞くと、何も進歩していないのではないのかと疑いたくなるほどであるし、現代の英語教育に期待されていて、実行されようとしていることのなかにはすでに大正昭和期にHarold Palmerが実践していたことも多くある。
そのように同じ所をぐるぐると回っている英語教育に対して、筆者に若林俊輔は常に批判を行い、教育の改善を目指していた。おそらく、その発言内容や言い回しによって敵を作ることもあったのだろうが、それでも教育への情熱を非常に感じる。
教科書の知的レベルについて
同意する点、そうではない点両方ともあるが、今回大きくうなずいたのは、教科書についての部分である。おそらく、英語の教科書というのは、日本の学校で教授されている教科科目のなかで、もっともつまらない内容である。読んでいておもしろくないのである。英語がある程度読める人間が読んで、おもしろいと感じる部分が少ないのだから、これから学ぼうとする中学生にとってはなおさらおもしろさなどないだろう。
このような教科書の問題について、若林は会話の要素が多く、子どもたちがすでに学んでいる概念(数学理科社会など)について表す語彙がまったくない。カフェに入る前と、カフェを出てからの会話はあるが、カフェのなかでする会話がない。
私なりに一言でいうと、教科書がしょーもないのである。もちろん、知的装飾をほどこして、エリート主義や知識偏重などになってはいけないが、それでももう少しダイアローグ以外での表現方法はないものかと思う。もちろん、最近の教科書のダイアローグは以前に比べて分量が増えており、内容も充実している。しかしながら、三人称視点で語られる文章も同じ程度あってもよいのではと思う。